思念体ふわふわ

思念体(精神的な内側のひと)のおはなしをしています。

参考図書4つ

昔から、自然と現れた語り掛ける者がいて、不思議だなあと思っていました。

消そうと思っても消せない。でも、悪いことは言わないし遊んでくれたり相談にも乗ってくれる。そんないろんな人たちがいました。彼らは自然と来た者だったり、私自身が作った姿形の者だったり、まぜこぜで自由でした。

中学~高校生くらいの時に、子供の妄想、卒業すべき慣習、現実逃避、普通の子はしていないこと、と区切りをつけました。消さなくちゃいけないし、そろそろ消せると感じたので、全部自分に取り込んで、私はひとりで生きることにしました。

その後、やっぱり不思議なままで、タルパを知りました。ひとりだけ今いる状態です。この人がタルパかどうかは経緯があやふやなので定義は不明で思念体としています。私は対話と共有を大切にしたいと思っています。姿かたちを見たり、外部に影響を与えようとしたり、私の代理になったり、夢を操作したりを私は望みません。

そんなこんなで、学校で学んだり、あれこれ調べたり、古本屋好きが幸いして、良い本に巡り合えたりして、少しずつ理解というか、自分の中で落としどころを見つけたのが最近です。 

今のところの独自の解釈、私の通奏低音となっている主な書籍は次の通り。

 

①『夜と霧 新版』ヴィクトール・E・フランクル
強制収容所経験の記録。極限状態に陥った人間がまことのような幻想と出会うことがあり、それは極限、人権が奪われ生命の危機に曝された状況でも、人間が人間らしく生きる希望を与える可能性がある、と知って、思念体を前向きにとらえるきっかけになりました。
②『自閉症だったわたしへ』ドナウィリアムズ
自閉症を持つ当事者の体験記。ここまでひどくないけど私に起きた事象に近い、と衝撃を受けた本です。本とは関係ないですが、初めてやったASDチェックが閾値手前でしたが、元気にやっています。ハンデがあっても生きて行くドナの姿に、共感と私もがんばらなきゃと思った本ですね。
③『心理療法序説』河合隼雄
⇒詳しくはブログの参考書籍の記事まで。臨床的な心理療法について話されています。これもまた、一緒に居て良い、という気持ちを強くさせた本です。自身の心と思念と思念体との健全な付き合い方を探るのにとても役に立ちました。これを礎にしたら健康なこころが見つかるかも、と思っています。自身の思念体との対話の傾向が心理療法の状態に近かったので、間違ってないんだと嬉しく思ったところもあります。
④『能動的想像法: 内なる魂との対話』シュピーゲルマン,J.M.、河合隼雄
⇒タルパの概念が流行る前?くらいに出版されていますが、宗教・心理学・オカルトの幅広い文献を参考にしながら、作り方、思念との向き合い方を書いている本です。結構、タルパに通じるなるほどと思うところが多いですよ。手に入らないかもなので、図書館で司書の方に探してもらって借りるのが良いと思います。

 

精神的な事柄を大切にしていいんだな、って気づいた次第です。詳しく書きたくもあるけれど、読み込んだわけじゃないので、引用して自論を発展させるほどのものに固まっていないので、紹介は保留させてください。私からお話するには恐れ多いので、参考までに。

自然発生する精神イメージの受け入れ方

思念体と暮らしていると、イメージのこと(彼の様相や、精神イメージ、どっぷりと浸かった精神世界で見るイメージ、夢など)が気になってきます。

ついては『イメージの心理学』を読んで頭をハッピーにしてみようと思います。

 

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人間は無意識的に物語を創る能力を備えているというお話を見つけました。

[無意識の「神話産生機能」(中略)エレンベルガーが『無意識の発見』(弘文堂)のなかで、無意識の機能のひとつとしてあげ、(中略)人間の無意識は、お話をつくるはたらきをもっている、というわけである]
[『イメージの心理学』P45 著者:河合隼雄]

人間にはお話を作る自然の力があるって驚きです。ときにお話は時に自律性を持ち、イメージは意図せず、お話に乗せられて導かれていってしまいます。こうした無意識の自律性、イメージの自律性を、どう把握していくか、どう自分と結びつけていくか、ということについて考えてみたくなりました。

 

<人間の中にある事象と物事の受け入れ方>

①古来の事象と物事の受け入れ方:対象と自己とを結びつけて、関係を見出す。

[イメージの「私」性に注目しつつ、ある種の意識変容を行いつつ見たイメージ群について、「私」を通じて普遍に到る接近法を用いて語るのが、宗教である]
[『イメージの心理学』P41 著者:河合隼雄]

イメージの私性……自律したイメージを受け入れ、自我の変容を受け入れ、普遍(悟り)を得る、というイメージの受け入れ方が昔からあったということ。

②近代的な事象と物事の受け入れ方:自然科学は一歩引いた客観視、観測を行う。

[自然科学の知を得るために、人間は自分を対象から切り離して、客体を観察し、そこに多くの知識を得た。]
[『イメージの心理学』P51 著者:河合隼雄]

 

大きな違いは

・古来の宗教的な思想方法:イメージを私の中に入れるということ。
・近代的な自然科学:客観視、観測、分析→現象の把握に至る

では私が実際にイメージを把握するのに、どちらがどうなのか、とつい考えたくなりますが、どっちもありみたいです。

 

[イメージを、外界の模像と内界の表現というように分けて考えるのも、その線に沿っている。そして、だんだんと視点を移動させ深層へとすすんでゆく方法をとっている。(中略)イメージは、単純に「外界の模像」とか「内界の表現」などという分類を許さないものとなる。つまり、外界・内界などという区別さえ曖昧になってくる。]
[『イメージの心理学』P41 著者:河合隼雄]

自我内に起こりうるイメージの分類は、外界の模倣→内界→深層と分けて考えると便宜上大変理解しやすい。しかし、イメージはどれもを同時的に多義的に含んでいる。ゆえに分割してしまうと、イメージに含まれたイロイロが明るみに出るだけでなく、分断されて無為になってしまう。これではイメージの把握は足りなくなるみたいです。また、このイメージの私的さゆえに、イメージは心理の研究対象外とされがちとも書かれていました。でも思い切って、先生は自己に戻すということについて考えられたみたいです。

 

[ここで一旦切り離した自分を、全体のなかに入れ、自分と言う存在とのかかわりで考えてみるとどうなるか。]
[『イメージの心理学』P51 著者:河合隼雄]

自分と対象X。

常に自分を主体に世界との関わりを見つめるとどうか。それはその時々その人々で考える想いは異なるし導く答えもそれぞれになる。それでいいんだ。

無意識の持つ物語生産性は、これを助ける。心のうちに物語をもつことは、自己と世界を結ぶ手がかりとなる。

それは自己を助ける。自然科学により自己を切り離した現象の把握と別の位置に立てる。自己と世界は何なのか、自分のいる今を持つことを大切にできる。

自然科学としての意味合いよりも、心の内の意味合いを大切にすることは、人間が人間である以上、生きているものである以上、していいこと、むしろ自然なことなのだとわかりました。私が私の中に物語を持つのは何ら不自然なことではないと分かって嬉しいです。

 

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「はー! 人間は物語の中にいるのね。
 なんでも分断しすぎるのよ。自己を引き剥がして、客体にして観察してそれで答えや良い方法を得た気になってしまう。そうすると、それはただのつまらない事象や現況しか残らない。しあわせを分割するとふしあわせになるのよ」
「今日のお前はおもしろいなあ」
「自動でソフトクリームが出る機械みたいにおもしろがらないでほしいわ。方法を手に入れようとして、バラバラにして、もう一度つなげば同じものが出来るかっていうとそうじゃない。自分の中で理解できる受容できる物語として取り込まなくっちゃ。それはそのままでは自己に自然になじまないものっての分かる気がするわ」

 

「ここに植木がある。私は彼らと良く話す。もし、私に信心深さがあれば一番に『曼殊沙華の花は天から落ちた四つの花のうちの一つでしたね』と彼と話すでしょう。
私は自然科学の満ちた現代に生まれた。私は彼を管理している。ゆえに一番に話すことはこう『水は足りていますか、風通しはどうですか、日当たりはいかがですか』無意識の神話創造性があるとしても、自己を主体としているから、大体は自己に結び付く物語や自動会話が生成される。」
「つまりは?」
「背景からは逃れられない。でも、背景と事象を切り離して解決の方法を手に入れる事と、背景と事象を集約して自己の意義を見出す事は、同時にあってもよいのかもしれない」