思念体ふわふわ

思念体(精神的な内側のひと)のおはなしをしています。

深層心理学の本質は私の心理学

先の項に入れたかったのですが長くなるのでこちらに分けました。

以下引用です。

 

---深層心理学とは

[深層心理学の本質は「私の心理学」であると言っている。つまり、私が他人のことではなく私について研究する心理学なのである。]

[深層心理学は「私の心理学」である。私が私を対象として研究するのだが、そのときにその傍に他者が存在する方がはるかに効果的であり、その他者は「客観的観察者」ではなく、あくまでその道を共にし、共感しつつ、自らも自分の心の深層に開かれた態度で接してゆくと、効果的であることが明らかになった。これは確かに近代科学の方法論とは異なっている。しかし、だからといってこれを「科学」ではないというのは早計ではなかろうか。自然科学はもともと自然の現象を解明しようとして生まれてきた。(中略)相手が「生きた人間」であるとき、(中略)その方法論はむしろマイナスにさえなってくる。]
[『心理療法序説』 著者:河合 隼雄 発行所:㈱岩波書店]]

 

深層心理学は「私の心理学」

1.深層心理学は「私の心理学」
 ・他人のこころではなく自分自身のことを考えること。
 ・自然科学としては解決不可、むしろマイナス。
 ・ただし科学でないというのは早計
 (後述:自然科学とイコールではないという意味で、
  研究として臨床の知の共有を行うことは有用みたい)
 ・ひとのこころにふれる他者は「客観的観察者」ではなく、
  あくまでその道を共にし、共感しつつ、自らも自分の心の深層に
  開かれた態度を持つことが効果的

 
私の中に内包される混沌を潜っていく、その間に私自身を見つけたり、世界への問いを見つけたり、そういったものを知っていくのが深層心理学みたいです。

まずは自分の内を知ることから始まるとも言っておられまして、他人を知る前に自らを知ることがたいせつ、知ることができなければ、不足が生じる可能性があるそうです。うーん、なんてまじめでストイックで挑戦的な領域なんでしょう!

 

☆深層心理の掘り下げを思念体と一緒にするのに似てる?

・先日からクライエントと治療者の関係を、内的世界の探索者ふたり(にんげんと思念体)と似てるなあって感じてポチポチ書いていますが、ここもちょっと似てるなあって思った次第です。

・私の心理学……そのひとそのものを掘り下げていく。内面も、人間として生きてきて授受した世界、総合的に包括されたモノをも掘り下げていく感じ。二者で対話を繰り返すことで、外聞にとらわれない自分のきもちや本心が洗い出されなんとなく分かっていくことや、客観的に見た鋭い忠告等を戴いたりすることがあります。そういった全体を見据えていけるようになる感じ、なんだか似ています。
・しかもそれは、心を開いた二者という関係性にも近しい感じがしていいなあって思いました。深層を理解しようとするためには、分かってくれる人が大切というのを覚えておこうと思います。
・似ているから取り入れてもいいところはとりいれて、こわいなってところはどうしてこわいのかの理由をもっと探ってみたいと思います。

 

---物語とは

[われわれの人生という長い「物語」。あるいは大きく考えれば、人類と言う「物語」。その一部として心理療法の過程という物語があり、その一部としてひとつの夢もまた物語としての性格をもって存在している。それらをどう読むかが「解釈」であり、より大きい流れのなかにある物語をうまく位置づけられたときは「洞察」ということになるだろうか。]
[どうするかと苦悶しているうちに、それらの背後(あるいは上位)に存在しているものの視点から見ることが可能となり、全体としての構図が読みとれるようになる。そこに満足のゆく物語ができあがってくるのである。]
[各人が自分にふさわしい「物語」を創り出す、と言ってもいいであろう。]
[『心理療法序説』 著者:河合 隼雄 発行所:㈱岩波書店]]

 

★物語とはそのひととなりを共時的に表す全体像めいたもの
 ・精神的な内面、経験してきた事柄、家庭環境、性質等、そのひとが享受し実際に
 体験し心のうちに留めてきたにんげんとしての重みのようなもの)みたい。
・物語は全体と当人の感覚が大事。物語が象徴するメッセージには、
 当人や寄り添って来たひとにしか分からない、背景や秘密、過去、
 見えなかった事、推測される未来等がある感じがあります。

 

「私」と内的世界や現実をひっくるめたすべての「私」を取り巻くもの、それが物語なら、「私」を深めていくというのは内的世界の探索に近い感じ。
その人自身の思いや歴史、それから取り巻く人々や環境、すべてを含んでいるもので、誰のものでもない、それぞれがあって当然で自然なのだって聞いて、「それでいいんだあ」って安心しました。それぞれの流れがあって当然というのは、なんだか納得です。

 

☆内面と思念体について検討
・思念体と話してみて、文字に起こして初めて、自分の無意識の中のことや、
 何となくどうしてこれにこだわるのかとか、明文化されることで見えてきて、
 何となく全体が見えてきて腑に落ちる感じになることが結構あります。
・ちょうど、夢・能動的創造・創作によって無意識の領域を意識化させて、
 自己を分析することに近いような
 ①夢や思念体との感覚的な対話を書き記して自由に分析してみる→
 ②そうした無意識から発されるメッセージを考えてみる→
  ★そこから洞察を得る。または自身の心理的課題を見つける→理想的
   ※大事なのは、それを受け止められるか。自分の中で納得して片付けられるか。
    そのかたちはひとそれぞれ。
  ☆うっかり過去のトラウマや象徴される現実問題などに直面化してしまう→
   そんなことがあると疲れるからひとやすみもしていい
   ※症状や問題として現れて、問題との直面化を無自覚に回避することも。

ただ、本来は心理療法家というプロに導かれて、症状を収めたい、こころの問題と取り組みたいという方向性を見出してもらって、その解決のために症状や環境を含めての自分自身や世界のあらゆることを少しずつ紐解くものですので、あんまりわーっと全部を把握しようと欲張ってやったら大変なことになるかもとおっかないなと思います。身の丈、身の丈、と自らを戒めなければ……。

それから、実際、外的に現実的にすることや濃いことをしている間は夢見が減るということもあるようです。人間自らを生かすためには、外的にエネルギーを向けないといけないときもあるので、ちょっと惜しい気もしますが、内面と向き合うのはあんまり欲張らないほうがいいかもしれないな、って思いました。
実生活と内面分析はバランス、バランス。

 

 

そうそう、先に後述と記載した点について、深層心理は科学じゃないの? っていうと自然科学ではない分野って感じ、みたいです。

---物語の共有について

[心理療法は従来の「科学」とは異なるものである。臨床の知を築く上で極めて重要なことは、主体者の体験の重視であり、その「知」は内的体験をも含めたものなのである。]
[優秀な報告事例が、そのような個々の事実をこえて、普遍的な意味をもつのは、それが「物語」として提供されており、その受手の内部にあらたな物語を呼び起こす動機を伝えてくれるからなのである]
[事実に加えて、内的体験に基づく臨床の知が伝達されることによって、個より普遍に到る道がひらかれるのである。]
[『心理療法序説』 著者:河合 隼雄 発行所:㈱岩波書店]]


★近代科学と隔した、内的体験を含めた臨床の知の共有による研究は有用
・科学的な一般的普遍的な対処法がないため、常に試行錯誤が大事、
 ということですが、その経験や事象やそれに伴う感情や事件は、
 きちんとすべておはなし出来た時に他のひとにとても役に立つ、
 研究の対象になる、とも言われています。

 

研究をしていても、こうした情報共有を行っても、普遍を求めるのは困難とありました。また、臨床経験に基づく、元型(アーキタイプ)を、長い人間の歴史の中で見いだされる共通項を、見出していくことが新しい科学の形と認めても良いのではないか。ともおっしゃられています。必要研究を深めるために必要であるが、一概に普遍で片づけて心を置いていくのは良くない、ともありました。
普遍性を求め、共通項を洗い出し、パターンを掴んでいくことは、自然科学的になら美しく立証できるのでしょうが、いきものが相手である以上、ましてや文化の深い、歴史の深い存在である以上は、それが必ずしもピタリとはいかないものみたいです。
ここでも、あてはめるだけにしてそのものに向き合うことにあぐらをかいていてはいけない、という姿勢が感じられます。

 

☆内面の掘り下げと、各人の物語に見えるものは重なる気がする
・内的世界の当事者の感覚を含めた他者の物語は、参考になる、役に立つという
 感じをもたらす感じもちょっと似ているかなって思いました。
・思念体をもつひとたちが見る景色や行動様式の傾向について、
 尊重を忘れずにプライバシーに配慮した上で、共通項として見出していくのは、
 ほんとうをみんなで探すみたいで良いことかもしれないなって思いました。