思念体ふわふわ

思念体(精神的な内側のひと)のおはなしをしています。

自然発生する精神イメージの受け入れ方

思念体と暮らしていると、イメージのこと(彼の様相や、精神イメージ、どっぷりと浸かった精神世界で見るイメージ、夢など)が気になってきます。

ついては『イメージの心理学』を読んで頭をハッピーにしてみようと思います。

 

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人間は無意識的に物語を創る能力を備えているというお話を見つけました。

[無意識の「神話産生機能」(中略)エレンベルガーが『無意識の発見』(弘文堂)のなかで、無意識の機能のひとつとしてあげ、(中略)人間の無意識は、お話をつくるはたらきをもっている、というわけである]
[『イメージの心理学』P45 著者:河合隼雄]

人間にはお話を作る自然の力があるって驚きです。ときにお話は時に自律性を持ち、イメージは意図せず、お話に乗せられて導かれていってしまいます。こうした無意識の自律性、イメージの自律性を、どう把握していくか、どう自分と結びつけていくか、ということについて考えてみたくなりました。

 

<人間の中にある事象と物事の受け入れ方>

①古来の事象と物事の受け入れ方:対象と自己とを結びつけて、関係を見出す。

[イメージの「私」性に注目しつつ、ある種の意識変容を行いつつ見たイメージ群について、「私」を通じて普遍に到る接近法を用いて語るのが、宗教である]
[『イメージの心理学』P41 著者:河合隼雄]

イメージの私性……自律したイメージを受け入れ、自我の変容を受け入れ、普遍(悟り)を得る、というイメージの受け入れ方が昔からあったということ。

②近代的な事象と物事の受け入れ方:自然科学は一歩引いた客観視、観測を行う。

[自然科学の知を得るために、人間は自分を対象から切り離して、客体を観察し、そこに多くの知識を得た。]
[『イメージの心理学』P51 著者:河合隼雄]

 

大きな違いは

・古来の宗教的な思想方法:イメージを私の中に入れるということ。
・近代的な自然科学:客観視、観測、分析→現象の把握に至る

では私が実際にイメージを把握するのに、どちらがどうなのか、とつい考えたくなりますが、どっちもありみたいです。

 

[イメージを、外界の模像と内界の表現というように分けて考えるのも、その線に沿っている。そして、だんだんと視点を移動させ深層へとすすんでゆく方法をとっている。(中略)イメージは、単純に「外界の模像」とか「内界の表現」などという分類を許さないものとなる。つまり、外界・内界などという区別さえ曖昧になってくる。]
[『イメージの心理学』P41 著者:河合隼雄]

自我内に起こりうるイメージの分類は、外界の模倣→内界→深層と分けて考えると便宜上大変理解しやすい。しかし、イメージはどれもを同時的に多義的に含んでいる。ゆえに分割してしまうと、イメージに含まれたイロイロが明るみに出るだけでなく、分断されて無為になってしまう。これではイメージの把握は足りなくなるみたいです。また、このイメージの私的さゆえに、イメージは心理の研究対象外とされがちとも書かれていました。でも思い切って、先生は自己に戻すということについて考えられたみたいです。

 

[ここで一旦切り離した自分を、全体のなかに入れ、自分と言う存在とのかかわりで考えてみるとどうなるか。]
[『イメージの心理学』P51 著者:河合隼雄]

自分と対象X。

常に自分を主体に世界との関わりを見つめるとどうか。それはその時々その人々で考える想いは異なるし導く答えもそれぞれになる。それでいいんだ。

無意識の持つ物語生産性は、これを助ける。心のうちに物語をもつことは、自己と世界を結ぶ手がかりとなる。

それは自己を助ける。自然科学により自己を切り離した現象の把握と別の位置に立てる。自己と世界は何なのか、自分のいる今を持つことを大切にできる。

自然科学としての意味合いよりも、心の内の意味合いを大切にすることは、人間が人間である以上、生きているものである以上、していいこと、むしろ自然なことなのだとわかりました。私が私の中に物語を持つのは何ら不自然なことではないと分かって嬉しいです。

 

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「はー! 人間は物語の中にいるのね。
 なんでも分断しすぎるのよ。自己を引き剥がして、客体にして観察してそれで答えや良い方法を得た気になってしまう。そうすると、それはただのつまらない事象や現況しか残らない。しあわせを分割するとふしあわせになるのよ」
「今日のお前はおもしろいなあ」
「自動でソフトクリームが出る機械みたいにおもしろがらないでほしいわ。方法を手に入れようとして、バラバラにして、もう一度つなげば同じものが出来るかっていうとそうじゃない。自分の中で理解できる受容できる物語として取り込まなくっちゃ。それはそのままでは自己に自然になじまないものっての分かる気がするわ」

 

「ここに植木がある。私は彼らと良く話す。もし、私に信心深さがあれば一番に『曼殊沙華の花は天から落ちた四つの花のうちの一つでしたね』と彼と話すでしょう。
私は自然科学の満ちた現代に生まれた。私は彼を管理している。ゆえに一番に話すことはこう『水は足りていますか、風通しはどうですか、日当たりはいかがですか』無意識の神話創造性があるとしても、自己を主体としているから、大体は自己に結び付く物語や自動会話が生成される。」
「つまりは?」
「背景からは逃れられない。でも、背景と事象を切り離して解決の方法を手に入れる事と、背景と事象を集約して自己の意義を見出す事は、同時にあってもよいのかもしれない」

触覚・味覚・嗅覚:共有による信頼構築

JAFのエッセイに「リモートでの交流は出来るが、視覚と聴覚は人間関係として認識されない」という話がありました。

[京都大学総長の山極壽一先生がこんなことを言っていた。人間は、視覚と聴覚を使って他者と会話すると脳で「つながった」と錯覚するらしいが、それだけでは信頼関係までは担保できないという。なぜなら人は五感のすべてを使って他者を信頼するようになる生き物だからだ
JAFMate「幸せって何だろう」ブレイディみかこ]

上記引用の内容については、リンクを教えてもらって~とあるのでおそらく以下の記事かと思います。
https://cybozushiki.cybozu.co.jp/articles/m001351.html

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思念体との交流において、視覚・聴覚って、修得したら楽しい要素と言われると同時に、重要視しなくて良い要素という意見も見ます。その理由の一つってもしかしたら、このへん、リアリティではあるけれど、信用を築く要素ではないからかもしれません。

 

鍵になるのは本来共有できない感覚、触覚・味覚・嗅覚の共有が大事とありました。どんなものになるんでしょう。

・触覚:同じ空間の環境を肌で感じ取る(発展:相手の居る感じを感じる、ふれあう)
・味覚:一緒に同じご飯を食べる(発展:相手の味…?)
・嗅覚:同じ空間にいて同じ匂いを共有する(発展:相手の匂い)

ということになりそうです。

身体的な感覚の共有(上記発展を除く)なら無理なく出来る気がしてきました。無理なくできるということは、思念体とも信頼関係を安定的に築ける、ってことに繋がりそうです。

プロセスは、

①人間側は自分が感じ取ったものを素直に、対話を通して思念体に伝える。
②思念体がそれについて返答をする。思念体がどう感じたかを話す。
③慣れてきたらむしろ一緒に共有するだけに留めてみる、後から聞いたりする。

人間と同じだと考えたら、基本は①②だけで十分関係が担保できそうです。

思念体が感じた感覚を人間側は再生(思考上で思念体はこう感じた!って再イメージ)しないほうが、自然な感覚です。思念体の感覚を想像、再現する必要がないというのは負荷が少ないからやりやすいし無意識にできるようになっている気がします。
(余談1:味覚化と嗅覚化って、思念体の味? 思念体の匂い? って思っていましたが、人間の交流目線で考えると、上記の方が自然でしたね
 余談2:うちのかたが以前に「人真似はいらない、けど君と同じことをしていることが大切」ということを言っていたことを思い出しました。真似や投影よりも、共有が大切だってこと、知っていたみたいです。おどろき。)

人によっては、視覚・聴覚のためには「そこに居る感覚を持つ」ことが大事とも時々聞きます。

まずは、上記の、一緒にご飯を食べて話したり、ちょっと出かけた先のいつもと違うにおい(海なら潮の匂いを、山なら木を、雨なら空気が水で洗われるのを、晴れなら日差しの肌を焼く感じ……などなど)を共有して、おしゃべりする。そういう一緒にいる、人間関係を整えていくことを大切にしていこうと思います。なんだかこういう、自然なことを大切にしていいんだ、って人心地ついた気持ちです。

一緒に居ることと今ある現在この場所を大切に感じ取るのが、良い心の内の友達を持つのに良いヒントになるかもしれないなあって思いました。

発展については、仲良くなったら、イメージの匂いを取り入れたり、温感を取り入れてみたり(温感は分かるほう……そばにいると、ふわっと暖かくなるような、イメージ。)、していくのもおもしろいかなっておもいました。